平成21年度 留学生だより(11)

仲里夏紀ソランジェ(アルゼンチン)

沖縄とわたし

琉球大学 県費留学生
仲里夏紀ソランジェ(アルゼンチン)

初めて、沖縄の「美ら海」を目にしたのは、私がまだ七歳の時のことでした。鮮やかな海の色は、私の目に焼き付けられました。あれからもう21年が経ち、今年の4月に県費留学生として久し振りに沖縄に来ました。約20年前に目にした沖縄の「美ら海」は未だ変わらず、当時の美しさのままだなと感じました。

私はアルゼンチンで生まれたのですが、両親はウチナーンチュです。幼稚園から小学校までは日本人学校に通い、毎日、日本の学校と変わらない教育を受けていました。しかし小学校を卒業した後はアルゼンチンの地元の学校で勉強し始め、それまでに学んだ日本語の漢字や、単語、文法等を少しずつ忘れていってしまいました。

思春期に入った私の中には、不安な気持ちが広がりました。それは、小学校時代は日系人ばかりの世界で育てられ、中学校に入学した時にはアルゼンチン人という「外人」の笑顔の中で過ごしました。そのため、「私は一般のアルゼンチンの人と、何か、どこかが違う」と考え、初めて人生に「私はアルゼンチンで生まれたけれど100パーセント、アルゼンチン人ではない」ことを意識し始めました。ですから、なぜ私が日本に来ることにしたかというと、私の両親が生まれたこの沖縄の文化や生の日本語を学んでいく中で、自分のアイデンティティーを確立したいと思ったからです。

沖縄に着いてから、最初は少し不安を感じました。かなり長い間、日本語を話していなかったため、言葉を忘れていて、日常生活にも困りました。特に授業が始まる前には、とても辛く感じました。なぜなら、友達も家族もいないし、会話をする相手がいないので、一人ぼっちになったようで、少しホームシックになりました。でも、学校が始まってからは、様々な国から来た学生に会ったり、日本人や沖縄の人と知り合いになって、寂しさや悲しみがどこかへ消えていきました。そして忘れていた日本語を少しずつ思い出せるようになり、自分の意見や考え、感情等が表現できるようになってきて、自分に自信が持てるようになって来ました。

沖縄に来たから学んで事の中で、強い印象を受けたのは、第二次世界大戦のときの沖縄戦のことでした。授業で戦争の原因や結果について勉強したり、アブチラガマや平和祈念公園などを見学したりしました。また、「慰霊の日」に向けての平和学習で、私は「集団死」について調べて発表しました。そのプロジェクトのメンバーは祖父母が戦争を体験したドイツ人の学生と祖父母が戦争を体験した沖縄二世の私でした。沖縄で起きた集団死について調べていく中で、2人で、毎日、戦争に関してそれぞれの考えを述べ合いました。そして、そのことをきっかけに、私は「祖父母と両親は戦後南米へ移住し、非常に貧しい生活を送り、どんなに苦労したのだろう」と改めて考えさせられました。ですから私自身、第二次世界大戦と私は関係があると思っています。なぜかというと、「もし戦争が無ければ、祖父母は南米に移住する必要なかったし、両親はアルゼンチンで出会わなかったでしょう。そうして私は生まれなかったかもしれない。」と考えてしまいました。

これからの残りの留学期間に、沖縄の文化、歴史、習慣や日本語、さらにウチナーグチをできる限りたくさん、一生懸命学んで、多くの人と出会い、いろいろな経験を積みたいと考えています。そして将来はアルゼンチンと沖縄の交流がもっと深められるように貢献したいと思っています。そのために、私が沖縄で経験したことを多くのアルゼンチンの日系人に語り伝えることが大切だと思います。そうすることによって、私のように外国で生活していても、沖縄の祖先たちが残してきた素晴らしい文化や習慣を子孫に伝えていくことができるだろうと信じています。