平成21年度 留学生だより(7)

沖縄で見えた将来の展望

名桜大学大学院 国際文化研究科国際文化システム専攻 言語文化教育研究領域
ユォン バン ビン(ベトナム)

私は、4年前の2005年に、日本へ留学しました。日本留学の動機は二つあります。一つは日本は先の世界大戦で敗戦となり、国土が焦土化し、苦難の時代を過ごしたと習いましたが、その後、見事に復興し、いまや世界大国として登場しています。その原因を知りたかったということです。二つ目は、中学時代に「おしん」という日本映画を見て感動したことで、これはベトナムの将来にとても参考になると思ったからです。なお、留学先を「沖縄」に決めたのは、ベトナムの大学時代の先生の一人が沖縄の出身でいろいろと沖縄の話を聞かされ、可愛がってもらい、沖縄に興味を持つようになったからです。沖縄へ初めて来て、びっくりすることが多々ありました。まず、思ったより大きな島であること、風景の美しいことです。沖縄県というのは沖縄本島だけでなく、台湾近くまで人が住む島々がいくつかあり、広大な海域を領有していることも初めて知りました。そして、日本の単なる一地域ではなく、2000年サミット会場でもあったことや日本有数の観光地であること、そして独特の歴史があり、世界文化遺産も持ちあわせており、また、空手の発祥地であることや春の高校野球全国制覇という経歴も持ち、予想以上の列島であると、認識を新たにした次第です。同じく強烈な印象を受けたのは、沖縄には巨大なアメリカの軍事基地があり、いろいろな問題があるということです。このような風景は私の国では見られないものです。

沖縄の人々は、私の国の人々のような容貌をしており、人情も厚く、親近感を覚えます。家族や親戚友人知人も戦争で犠牲者となったのが大勢います。私の父は顔面に弾丸が命中して片目は見えなくなり、母の妹、つまり叔母さんは化学兵器で半身不随となるなどと言った話を沖縄の方々は自分のことのように聞いてくれます。ベトナムの人々と同じような悲惨な戦争体験、困難な戦後生活を体験された多くの沖縄県民は、私があまり説明しなくてもよく理解し、物心両面の手を差し伸べてくれます。

素晴らしい国とは人情が厚い国だと思います。沖縄戦の激戦地であった南部の戦場、何十万という犠牲者を祀っている慰霊の場所も訪れましたが、このようなところはベトナムにもあります。日本では毎年夏、慰霊祭やそれにともなう行事が催されますが、ベトナムでも同じような行事があります。

このように、ベトナムと沖縄は共通点が多々ありますが、もちろん違いもあります。その一つはベトナムの人々は日本本土の人々と同じようによく働きますが、沖縄の人々はどちらかというと、呑気なところがあるように思います。これでは、ベトナムの大都市のバスには乗れないのではないかと思います。しかし、それで生活できるのならむしろ羨ましい限りです。

日本に住んで感じることは、教育に熱心なことです。勉強が好きであろうが、嫌いであろうが、できるだけ進学しようと懸命になっていることです。それと、国際交流にも熱心なことです。私の国では、大多数は経済力がないために、進学は難しく大きな課題となっています。また日々の生活に追われ、国際交流をする余裕もないため、世界情勢に疎い面があります。そこで私が考えているのは、今後さらに進学し、研究を深めて将来、教育に携わること、そしてできるだけ多くの日本国民にベトナムの言語を含む文化を理解してもらうことと同時に、自国の人々にも日本語、日本文化を学習させることです。日本とベトナムは歴史的にも関係がありましたが、戦後、特に近年はますます緊密になり、日本企業の進出などは目覚しいものがあります。このように両国は交流が盛んとなりましたが、それだけにお互いの文化についての基礎知識が必要なのは言うまでもなく、互いに理解しあえば両方が益々発展することと確信しています。

以上のような次第で私はベトナムに帰国した後は大学を設立したいと考えています。日本にいて教育の重要性を痛感して、今、やむにやまれぬ気持でいます。科学技術だけでなく、精神、文化の領域にも焦点をあて、国際学術交流も念頭においた、高等教育機関設立の実現に全力を傾ける決意をしています。繰り返すようですが、日本が発展したのは、教育によるもので、諸外国もよく調査したためだと日本に住んで肌身に強く感じました。幸い、ベトナム人も、日本人のように勤勉で困苦欠乏にも耐える精神があります。

おわりに、日本つまり沖縄県で学業生活を続けているところですが、多くの沖縄県民の方々の激励の言葉、物心両面の支援をいただいていることに対し、この場を借りて、深く感謝の意を申し上げます。